
僕はクライアント周りを追えて、社に戻る途中で彼女のことを
思い出して、また携帯に電話した。
今度は知らない男が電話に出た。
「もしもし吉田です」と電話の向こうで中年の男の声がした。
僕は一瞬戸惑ったが、気を取り直して言った。
「恵子さんをお願いします」
その中年の男は
「多分、番号をお間違えだと思いますが・・・」と言って
電話を切ろうとしたので、僕は慌てて
「すいません、この番号はいつからお使いですか」と聞いた。
「もう2年になります」と彼はよく通る高い声で言った。
僕はその男に詫びを言って電話を切ったが、状況がよく理解
できなかった。
こんなことは絶対にあり得ない。だって昨日も彼女とこの
番号で話をしたばかりなのだ。
僕は社に戻るのはやめて、彼女のアパートに向かった。
郊外の閑静な住宅地にあるそのアパートはそこから電車で
30分の距離だった。
最寄の駅で電車を降りると、僕はこれまでに何回か通った道
を足早に彼女のアパートに向かった。
僕が彼女のアパートに着いた時には、辺りはもうすっかり
暗くなっていた。彼女の部屋は2階の角で、僕は階段を
昇って彼女の部屋の前に急いだ。
ドアには「岸川」と彼女とは違う苗字の書かれた紙が
表札代わりに貼られていた。
それもあり得ないことだった。
その紙は昨日今日貼られたものではないことが、その汚れが
ドアと自然に馴染んでいることからはっきりと分かった。
僕は呼び鈴を鳴らそうとしたが、部屋の中から、聞き覚えの
ない中年の女性の声と、複数の子供の声が聞こえてきて、
鳴らすのをやめた。
ドアの横に置かれている子供用の自転車やゴミのポリバケツ
が彼女らがもう何年もここに住んでいることを物語っていた。
僕は頭の中がひどく混乱して、最初から整理しようとしたが
無駄だった。
ここは恵子の部屋だ。
間違えるはずはない。
なぜなら僕は今までに何回もここに来ている。
では、なぜ今ここに全く知らない家族が住んでいるんだ。
恵子はどこに行ってしまったんだ?
僕はこの部屋で3日前に彼女を抱いた。その後に一体何が
起きてしまったんだ。
しかも昨日までは彼女とメイルで話しているのに、彼女には
全く変わった様子は見られなかった。
僕は言い知れない不安を抱えながら自分のアパートに戻った。
一体、恵子に何が起きたというんだ。
待て、もう一度最初から考えてみるんだ。
冷静になって考えれば、絶対に糸口は見つかるはずだ。
彼女の携帯の番号は全く違う人間のものになっていた。
彼女のアパートも見も知らぬ人達が暮らしている。
それじゃ仕事はどうなっているんだろう。えっ仕事?
そうだ、彼女は労働組合には行っているんだろうか?
僕は慌てて、前に彼女から聞いていた労働組合の電話番号を
調べて、電話をかけてみた。
もう8時を回っていたが、誰かがいるはずだ。
呼び出し音が3回鳴ったところで、低い声の男が電話に出た。
間違いなく彼女が言っていた、労働組合だった。
電話の相手はきっと彼女が「おじさん」と呼んでいた
人種の一人だ。
僕は彼女の名前を告げて、彼女が今日出勤したか尋ねた。
「申し訳ないですけど、そういう方はこちらには
おりませんが・・・」
「そんなはずはないんです。もう一度、調べて・・・」と
言った時、その男は
「私は人事課に勤めていますから、ここで働く全ての人間を
知っているんです。私の知らない人間はいないのです。」
僕はその男に丁重に礼を言って、電話を切った。
僕は益々混乱した。
最初から恵子は存在しなかったんじゃないのか?
僕は今朝まで3ヶ月におよぶ長い夢を見てただけ
なんじゃないのか?
僕は慌てて、パソコンを立ち上げて、メイルを開けた。
でもそこには間違いなく恵子から来た山のようなメイルが
存在した。恵子が存在することだけは確かだった。
だとしたら、残る可能性は恵子が彼女の素性について
嘘をついていたということだ。
でも、それも労働組合のことは別にしても考えにくい
ことだった。僕は毎日彼女の携帯に電話していたし、
その履歴は僕の携帯に残っていた。
それに僕は彼女のアパートに何回も行っていたし
彼女をそこで抱いた。
はっきりしていることは、彼女が僕の前から消えたこと
だけだった。しかも完璧なくらい彼女が存在していた証拠が
抹殺されていた。
もう彼女からメイルが来ないことは、直感的に理解できた。
彼女は何かの理由でこの世界から消えてしまった。
そして彼女の存在を知っている人間は僕以外にはいないのだ。
僕は後ろからいきなり深い崖に突き落とされたような喪失感と
焦燥感に包まれて、身体から力が抜けていった。
このまま死んでしまうのではないかと思うくらいの脱力感だった。
もう何も考えられないくらい頭も神経も疲れていたが、
眠ることはできなかった。
今は彼女の全てが愛しかった。
当たり前のように存在していたものが忽然と姿を消したこと
による喪失感よりも、それが自分にとっていかに大切であったか、
今になって理解できたことに対する焦燥感だ。
僕は最後に彼女から来たメイルをもう一度読み返してみた。
そこには彼女がその日にしたことや、上司の愚痴が書かれていた。
僕は「返信」のボタンをクリックして、ただ1行
「愛しているよ、恵子」
とだけ打って、そのメイルを送信した。
このメイルを恵子が読むことはないだろう。
それにこのメイルが一体どこに配信されるかなんて、
どうでも良かった。
そうだ、僕は恵子を愛している。
もう失われてしまった存在だとしても、忘れることなんてできない。
恵子は知らず知らずのうちに僕の心に住み付き、今では僕の心を
占領していた。恵子を失うことは、心を失うのと同じことだった。
僕はソファのマットに顔を埋めて、声を殺して泣いた。
こんなに泣くのは小学校以来だった。
泣いても泣いても涙が溢れてきた。
どれくらい時間が経ったかわからないが、遠くで暴走族のバイクが
集団で走る音とそれを追うパトカーのサイレンの音がこだまのように
聞こえてきた。
僕はそれを夢の中で聞くように眠りに落ちていった。
そう、深い深い眠りに。
...............................完.................................